小海線の歴史

小海線の歴史幾多の変遷を経て今に続く小海線の歴史を知ろう!

海の底から高原へ

JR線では最も標高の高い場所を走る高原鉄道・小海線、しかし、その小海線が縦断する佐久平は、ずっとずっと昔、海の底にありました。
今から3000万年前といいますから、佐久平という地名はおろか、人類も生活していませんが、 その頃は日本列島の中央部分が陥没して海底に沈んでいたそうです。
この地や周辺で貝の化石がよく発見されるのはそのためです。
その後、地殻変動によって隆起して陸地となり、現在の地形が作られたのは約300万年前のことで、 この地に人類が住み着き、その営みが開始されたのは、今から1万5000年前のことだといわれています。

「海」がないのに小海

ところで、人類が生活を始めてからはずっと陸地のはずなのに、なぜ小海線とういう名前なのでしょうか。
また、海尻や海ノ口とうった地名があるのはなぜなのでしょうか。
それは今から1100年前の八ヶ岳に理由がありました。
その頃、八ヶ岳は水蒸気爆発を起こして、崩れた土砂が千曲川を堰き止め、いくつかの湖沼(海)ができました。 そのなかで小さい海は「小海」、大きい海の両端が「海ノ口」「海尻」と名づけられ、水が引いたあとも地名として残ったのです。
海のないこの地域では湖沼のことを「海」と呼んだのでしょうが、当時の人たちが本当の海を見たら、さぞ驚いたことでしょうね。 海の底だった時代、小さな海が存在した時代、そんな古のロマンを感じながら、小海線の車窓からの眺めを楽しんではいかがでしょうか。

佐久鉄道からスタート

信州小諸と甲州小淵沢を結ぶJR小海線は、八ヶ岳の雄大な姿や野辺山ののどかな景色の中をかけぬけ、高原鉄道として親しまれています。
小海線の前身の佐久鉄道(小諸 - 中込)は、佐久地方の資産家や銀行家が集まり、開業へ力を注ぎました。 鉄道の開通とともに中込駅周辺(佐久市)は旅館や店が建ち、新しい町ができあがっていきました。 順調にスタートを切った佐久鉄道は大正8年までに小諸から小海まで延長されます。
最終的には静岡県と新潟を結んで、本州横断鉄道となる壮大な計画がありましたが、残念ながら実現していません。

つながった78.9km

その後の経済不況や、定期運行バスの登場などもあり佐久鉄道は一気に苦境に立たされます。
そして昭和9年、政府に買収され、国鉄の小海北線として生まれ変わりました。 一方で国鉄は佐久鉄道を買収する前年の昭和8年、小海南線の小淵沢 - 清里間を開通させており、信州側と甲州側の双方から全線開通に向けて工事が進められました。 そして2年後の昭和10年11月29日、信州川上 - 清里間が開通し、小諸 - 小淵沢間の78.9kmが一本のレールで結ばれることになったのです。
この全通を機にSLのC56蒸気機関車が導入され、運送力が向上します。その後C56からディーゼル車へバトンが渡され、線路をゆく姿はだいぶ様変わりしました。昭和62年には、国鉄民営化によりJR東日本の経営に平成19年にはハイブリット車両E200系を日本で初めて導入するなど、先進的な試みも行っています。
そして平成27年11月29日、小海線は満80歳を迎えました。